高田藩主、榊原家の藩祖は文武の道を奨励したので、家臣達は、その遺風を継いで昼は武技、夜は学問に励み、それが終わると握り飯を食べて解散するという「ヘンテツ会」を続けていた。
第13代政愛(まさちか)は、文武奨励に意を用い藩校設立の志を持っていたが果たせない内に逝去した。次の藩主政敬(まさたか、14代)は再度の上洛、長州出兵などで時代の激しい流れや学術の進歩を目の当たりにして、改めて人材育成と教育の重要性を認識した。
かくして慶応2年(1866)11月、政敬(まさたか)は先代がなし得なかった藩校の開設に踏み切った。当初の計画では、学舎を対面所(榊原神社)とし、領内に数カ所の小学校を設けるというものであった。実現の緒についたのは、学舎の設置で、これが「修道館」の始まりとなる。
明治の世を迎えると、大監察柴田一郎、監察庄田直道を藩校設立掛に任命し、藩校の充実に取りかかった。校舎は対面所から領奉行(大手町小学校)に移すとともに学舎一棟を増設した。教授者として教官・助教・助教並・日構方・典籍方および句読方頭取・句読方などを揃え、書籍を整備し、諸規則を制定してきた。
修道館の学生は藩士やその子弟のみでなく、一般庶民にも門戸が開かれ、学生の年齢は8,9歳頃から26,27歳におよび特に制限はなかった。だが修業年限は3カ年で春と秋の試験において3回落第すると退学しなければならないという厳しいものであった。学習内容は、午前は城内の演武場で銃隊訓練、午後は修道館で和漢、洋学、書道を学んだ。幼い者のためには小学科が設けられた。
明治5年(1872)、学制が発布されると修道館の校舎や資産は小学校と洋学校に譲り渡された。これらは、現在の大手町小学校および高田高等学校へと引き継がれていくことになる。
(以上は、村山和夫氏による「藩校『修道館』と私塾『文武済美堂』, 上越の歴史, 郷土出版社, p132, 1998.」より引用しました。) |